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野州狛犬見聞録

出会った狛犬達の記録。時々御朱印

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諏訪大社上社本宮(諏訪市)

諏訪大社上社本宮
(本宮幣拝殿)
鎮座地:長野県諏訪市中州宮山(本宮)
御祭神:健御名方神

【諏訪大社総括】
式内社(名神大)、信濃国一宮。全国約25,000社の諏訪神社の総本社。
諏訪湖周辺に湖を挟んで上社(本宮・前宮)・下社(春宮・秋宮)が鎮座している。
旧称は「諏訪神社」。「諏訪大明神」や「お諏訪様」とも呼ばれている。明治に入り「諏訪神社」を正式名称としたが、昭和23年に他の諏訪神社と区別する必要が生じたため「諏訪大社」と改称した。
当社の祭神は「風の神」「水の神」ともされており、諏訪の龍蛇信仰と関係していると言われている。また、上社では「蛙狩(かわずかり)神事」「御頭(おんとう)祭」「御射山(みさやま)祭」など狩猟神事が執り行われ事から、狩猟とも関係の深い神とも言われている。

創建年代は不明だが日本最古の神社とされる。持統天皇5年(691)8月に勅使が使わされ、文献に「信濃須波」の神を祀るとの記録があり、これが文献での初見とされている。平安時代末期に編まれた歌謡集「梁塵秘抄」に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われているように、古くから軍神として崇敬されていた。神功皇后の三韓征伐に御神徳があったと言われており、坂上田村麻呂が蝦夷征伐に向かうときにも祈願したと伝わる。
中世以降は源頼朝や北条一門、足利尊氏、武田信玄、徳川家康や歴代の徳川将軍から崇敬を受けていた。

諏訪大社の神事で有名なのは「御柱祭り」であろう。正確には「諏訪大社式年造営御柱祭」。6年に一度(7年目に一度、寅・申の年)樅の木を山から切り出し、社殿の四方に建てて神木とする祭であり、東宝殿と西宝殿が交互に建替られ遷座祭を行う諏訪大社で一番大切な神事である。なお、諏訪大社周囲の大小神社にも御柱に見立てた柱が立てられていることが多い。この御柱の起源は不明であり、神の依り代、造営の材料、神域の結界柱等の説がある。

諏訪大社には、大祝(おおほうり)を最高位の神官として、五官祝(ごかんのおほふり)の神職を置いていた。上社の大祝は健御名方神の後裔とされる諏訪氏が代襲し、大祝を御神体とされ現人神として崇められていた。下社では科野国造の後裔である金刺氏が務めていた。中世にはどちらも武士団化し、上社と下社で抗争が起きる。更に上社内でも分裂が起こり、武田晴信の攻略により没落してしまう。晴信派諏訪頼重の娘を側室として迎え(諏訪御寮人)、産まれた子どもが諏訪四郎と呼ばれ、後に武田姓を名乗り「武田勝頼」となる人物である。

【本宮】
本宮と前宮は「本社・摂社」の関係であった。
本宮には本殿がなく、幣拝殿と片拝殿の諏訪造という様式であり、徳川家康が造営寄進したと伝わる。境内のほぼ中央に東宝殿、西宝殿があり、本宮で最も重要な御社殿であり、寅年と申年に交互に建替がなされ遷座祭が行われる。
以前は健御名方神の御正体(依り代)とされていた神氏の諏訪氏を御神体又は現人神として崇敬していたが、明治時代に入ると守屋山を御神体としている。

天正10年(1582)の甲州征伐で織田軍の兵火により社殿は焼失。神輿だけが山中に逃れたため無事であった。まず仮殿が造られ順次再建。元和3年(1617)に社殿が完成した。江戸時代に歴代の諏訪藩主諏訪氏により社殿の改築が計画され、天保2年から天保9年の約8年の歳月をかへ現在の社殿が完成。旧社殿の拝殿は嘉永2年(1849)に富士見町の諏訪神社に移築され、桃山時代の建造物として重要文化財に指定された。

社殿6棟が国の重要文化財に指定されており、自然林の社叢は県の天然記念物に指定されている。

諏訪大社上社本宮・狛犬

諏訪大社上社本宮・御柱
本宮一之御柱。二之御柱は取り忘れたらしい(^^;;


前回参拝したのはいつだったか…
久しぶりに訪れた諏訪大社。下社春宮→秋宮→上社本宮→前宮の順番で参拝。
境内の空気がガラッと変わり鳥肌が立つのが分かった。大社といえども派手さがない社殿。四社巡ったがどこも同じ雰囲気。梅雨の時期でこの日は諏訪湖周辺のみ晴天。大型観光バスの観光客とも入れ違いでかち合わず、ゆっくり参拝と境内散策ができた。
四社とも境内でお清めの雨に降られる。気分爽快でそのことを一緒に参拝した友人達に話しをしたら「単なる気のせいだよ~」なんて笑われたけど、私は神様を信じる!


 → 諏訪大社上社前宮
 → 諏訪大社下社春宮
 → 諏訪大社下社秋宮

 
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